4月29日、永かった最期の一日
文太の最期の日から早くも9日が経ちました。
自分の気持ちを整理するためにも、いろんな感情に区切りをつけるためにも、あの日何が起きたのか、文太の最期を記録として書きとどめておきます。
かなりの長文なことと、重い話なので続きは「Read More」にて。
(一部ショッキングな描写も含まれていますので、ご了承ください。)
「てんかん発作」でそれまでの経緯は簡単に書きましたが、その後も発作は治まるどころか、どんどん悪化していきました。
金曜日に病院に行ってから、三日後の4月27日の早朝3時21分、5回目の発作が起きました。
それまでは手足をピーンと伸ばして硬直し、ぶるぶる震える強直(きょうちょく)発作で長さも2分足らずだったものが、いつもの強直発作の後に腕と足をかきかきする間代(かんたい)発作が始まり、時間も合計4分と長くなりました。
その時も発作の後徘徊と食欲が止まらず、約2時間後に強制的に寝室に連れて来てマッサージをすると5時半ごろ、ようやく寝始めました。
その後は食欲も散歩も遊びもいつも通りだったのですが、日中文太のベッドで寝ていても熟睡できていないようで、時々起きて顔をあげて頭をゆらゆらさせていました。
そのたびにいつものように文太のそばに行って、落ち着いて眠るまでなでなでしました。てんかんの発作を繰り返したことで首から頭の筋肉がものすごく固くこっていたので、やさしくもみほぐしましたが、頭を触られることをすごく嫌がりました。いつもはそんなことはないので、多分何かしら異常を感じていたのだと思います。
正直、この時点でもうイヤな予感しかありませんでした。てんかん発作はただの症状のひとつで、原因はおそらく脳腫瘍など脳に何らかの異常が出ているんだろうな、と。
もっと若ければ積極的にMRIの検査をして今後の対処を考えたかもしれません。でも、もうこの年で全身麻酔も手術も考えられない。
去年喉の腫瘍摘出手術をしてから、余命数ヶ月をぶっちぎって1年以上も頑張ってくれた。もうこれ以上そんな文太の体を傷つけたくない。闘わせたくない。脳腫瘍ならそれはそれで文太の寿命なのだと受け止めようと覚悟を決めました。
それでも、ただ手をこまねいて死を待つなんてできない。何か自分にできることはないのか。てんかんについてもっとちゃんと知ろう。発作を抑えること、発作後にしてあげられることはきっとまだまだあるはずだ。
そう思って犬のけいれん&てんかん発作についての本を買い、他にも片っ端からいろんな情報をかき集め、改善のヒントを探しました。
ただ、これはいつもジレンマでもあったのですが、文太のためにと色んな勉強をしたいと思っていても、実際は文太(とにゃんず)の世話に手を取られすぎて本を読む時間すらまともにない状態が続いていたので、てんかんの本もざーっと目を通しただけで、あとでゆっくり読もうと思ったまま結局じっくり読む暇はありませんでした。
6回目の発作は前の発作から約20時間後、4月27日の夜中午後11時28分に起こりました。また同じように強直間代発作が4分半ほど続き、座薬を入れましたがそのあとの徘徊が治まるまで3時間かかり、明け方になってようやく落ち着きました。
ようやく寝室で寝始めたもののやはりあまり熟睡はできないようで、時々目が覚めて頭をゆらゆら。翌朝28日6時過ぎにはいったん起きて朝ごはんをあげるといつも通りに完食。その後の飼い主ごはんのおねだりもいつも通り。
朝ごはんから散歩までの時間はいつもお休みタイムなのですが、ここ数日夜中に発作後の徘徊が続いていてほとんど寝ていないにも関わらず、いつも寝ている時間にもゆっくり眠ることはできずにうつらうつらしながら時々目が覚めて顔をあげていました。
そんな中でも、散歩はいつも通りに行きもりもりうんこもしてきました。
散歩後にいつものようにマッサージをするとようやく爆睡し始め、いつもはお昼前からうるさいぐらいごはんを催促されるのに、起きる気配がなかったのでそのまま寝かせてあげました。
でも、ゆっくり眠れたのはお昼までの2時間ほどで、午後からも寝ていたかと思ったら時々目を開けてぼーっとしていて、眠れないようでした。その状態の時に体がビクン!としたことが3回あり、発作の前兆かと思って身構えていたのですが、その時は発作は起こらず。
その日は仕事そっちのけで前日かき集めたてんかんの資料を読んでいて、何が何でも夜までに一通り全部読んでしまいたかったのですが、眠れなくて不安そうにぼーっとしている文太をどうしても放っておけず、目が覚める度にそばに寄り添って「大丈夫やで。おかあはんずっとそばにいるからな。」となでなでして落ち着かせることの方を優先させました。
文太との別れを覚悟したとは言え、やはりそれはもっと先であってほしい。どうしてもどうしても、16歳にはなりたい。せめて夜ゆっくり眠れるようにしてあげたい。ゆっくり眠ることで体力をつけさせたい。何とかして発作を抑えたい。
主治医の先生に相談しててんかんの薬をもらい(病院へは文太は連れて行かずにおとうはんに行ってもらいました)、その日の夜に初めて抗てんかん薬を飲ませました。
最後の夜、ごはんもいつも通りもりもり食べ、それまでずっと日課だった食後のコングも喜んでしました。ただ、その後の追いかけっこは一瞬おもちゃを咥えただけで、ぼとっと下に落とし、そのまままたぼーっとしていたので文太を私の上に乗せて「合体」し、「大丈夫、大丈夫。」の魔法をかけました。
その日は少し早めに10時前に寝室に行きました。「薬飲んだし、今日は発作起きんかったらええなぁ。今日はゆっくり眠れたらええなぁ。」そんな願いもむなしく、寝室のベッドで一緒に寝始めてから約2時間後の4月29日午後0時、通算7回目の発作が起こりました。
その時も強直間代発作で時間は4分40秒。どんどん発作の時間が長くなっています。いったん落ち着いたあとすぐに座薬を入れると、またいつものようにリビングに行き、今までにない速さでぐるぐるこたつの周りを徘徊し始めました。
「そんなに早く歩けたん?」と、ちょっとびっくりするぐらいの速さにものすごく嫌な予感。明らかに文太の意志ではなく、脳が暴走して歩かされている感じでした。
そしてその10分後の0時15分、歩いていた文太が突然ばたっと倒れ、2回目の発作が起こりました。
すぐにまた発作が起きそうという予感がものすごくしていたので、握りしめていたスマホですぐに夜間救急病院に電話し、状況を伝えてすぐ行く旨の連絡をしました。
病院までの30分足らず、最初は呼吸もものすごく荒くて喉もガーガー言う感じになっていたので保冷剤で喉を冷やしていました。それでも、時々ギャーギャーという悲鳴のような声をずっとあげていたのですが、病院に着くころにはなぜかすっかり落ち着き我に返っている感じでした。(そのころになってようやく座薬が効いてきたのかもしれません。)
病院ではこれまでの経緯と抗がん剤治療をしていること等々説明し、てんかんを抑える注射とともに、話を聞く限り脳腫瘍の可能性が高いということで脳圧を下げるためのステロイドの注射も打ってもらいました。
そのころには文太はすっかり落ち着いていて、「入院の用意もしていたけど、大丈夫そうなので今日はこのまま帰って様子を見てください。」と言われました。(たとえ入院と言われても、させずに帰っていましたが。)
座薬は効くまでに30分から1時間かかるそうで、それよりももっと早く1分ほどで効くという鼻から噴射する薬を2本もらい、「次に発作が起きたらこれで対処してください。」と言われていました。
車の中では落ち着いていたので、注射も打ってもらったし今日はこのまま寝てくれるかも、と期待していましたが、やはりというか、帰宅後すぐ徘徊が始まりました。
てんかん発作の後はものすごく血糖値が下がるそうで、低血糖がまた次の発作を呼ぶ恐れもあるので何か食べさせた方がいいと本に書いてあったので、文太にいつもあげていたマヌカハニーを少しあげ、朝食分のごはんの半分もあげました。
それでもずっと徘徊は止まらず。無理やり抱っこしたりベッドに連れてきて寝かせたりするとギャウギャウが激しくなります。てんかんに効くツボや精神を落ち着けるツボ、心身をリラックスさせるマッサージなど私の知識をフル活動させて色んなことをしてみましたが、もはや私の手技ごときで落ち着くような状態ではありませんでした。
ただあてどもなく歩くこと。そして、食べること。それだけが文太の悲鳴を止める手段だったので、とにかく頭や体をぶつけないように一緒に後ろから歩いて補助し、時々ごはんやささみやブロッコリーなどをあげて体が疲れて寝てくれるまで待つことにしました。
前日の徘徊が3時間だったので、その日も落ち着くまで最低それぐらいはかかると腹をくくりました。文太について後ろを歩きながら、「ああ、文太はこうやっててんかんで死ぬんやな。」と思いました。多分これはこれから毎晩続くんやろな、と。
私もこの三日間、夜中文太に付き合って起きていたので連日2~3時間しか寝ておらず、時間が経つにつれ意識が朦朧としてきました。おとうはんが「いつでも代わるよ。」と言ってくれていたので、代わってもらおうかとも思いましたが、「もうちょっと。もうちょっとだけ。もうちょっとで寝てくれるかも。今ここで文太のことより自分の睡眠を優先したら、この先きっと後悔する。」と。
てんかんの発作自体は数分で終わるけど、その後に続く錯乱状態の方が心身ともに辛かった。でも、この辛さから解放されるのは、文太とお別れするときなんやろなー。と思うと、どんなにしんどくても辛くても眠くてももうちょっと頑張ろうと思えました。もうそれぐらいしか文太にも「文太がいなくなった後の自分」にもしてやれることがない、と。
多分、そう遠くない未来に別れがやってくる。
前からずっと心に決めていたように、この先何があっても落ち着いて、笑っている。
文太を安心させる。最期まで絶対後悔のないように、全力を尽くす。
そう自分に言い聞かせました。
深夜2時ごろ病院から家に帰って約3時間半。全く治まる気配がないまま夜が明けました。見かねたおとうはんが起きてきて、私もいよいよ限界に近づいていたので、ちょっとだけお願いして仮眠をとることにしました。前日もおとうはんに代わってもらってからしばらくして落ち着いたので、おとうはんの方がいいのかも、という気持ちもありました。
寝室で横になってから1時間後、文太のギャウギャウ言う声で目が覚めました。
「ああ、まだアカンのか・・・。まだ眠れてないのか・・・。」
おとうはんも文太に色々食べ物をあげていたみたいですが、それでもまだ眠れず完全に脳がオーバーヒートしている感じでした。ギャウギャウ言うのは多分痛いか辛いか何しろ脳に何らかの異常があるからなのだと思います。
こうなったら、と残っていたお昼分のごはんも全部あげました。不思議なことに、食べている間は「いつもの文太」なのです。食べている間は痛いのや辛いのを忘れられるのか?食べるのをやめるとギャウギャウ言い始めます。そこだけを切り取って見ると、まるで「食べるものくれー!」ってわがままを言っているかのようでした。
朝になるとさすがに疲れたのか徘徊はしなくなり、リビングのソファでおとうはんと私の間にフセの状態でいましたが、食べていないときはギャウギャウ悲鳴をあげ、食べると落ち着く、というのを繰り返していました。
そのうち、文太の左側からごはんをあげようとしても反応がないことに気づきました。多分、左目は見えなくなっていたのだと思います。
結局文太は一睡もしないまま7時40分、その日三回目の発作が始まりました。時間は強直発作が30秒、間代発作が30秒。時間的には夜中の発作よりも短かったけど、その後の息の荒さが治まらず、気管からペコペコ変な音がしてきました。おそらく連日の呼吸困難で気管虚脱を起こしていたのだ思います。
3回目の発作が起きたとき「ああ、今日なんか。今日がその日なんか。」と思いました。
まだ朝早かったけど、おとうはんが主治医の先生に連絡をして相談すると「一度麻酔をかけて脳の暴走をリセットする」と言ってくださいました。
でも、今麻酔をかけてリセットできたとしても、明日は?明後日は?脳の病気が原因なら、手術でその原因を取り除かない限りまた同じようにこんな辛い思いをさせるだけなのでは?
昨日の夜は抗てんかん薬を飲ませた。夜中に救急病院に駆け込んでてんかんの注射と脳圧を下げるステロイドも打ってもらった。鼻から入れる薬も入れましたが、その30分後にまた4回目の発作が起きました。
もう打てる手は何もないんじゃ・・・。
あと4日で16歳。
もうちょっとで手の届きそうなところまできた16歳。
喉から手が出るほど欲しかった「16歳」の称号。
でも、その16歳になるまでのあと4日間が文太を苦しめるだけのものになるなら、そんな4日間はいらない。16歳になんてならなくていいから、もう今日このままこの苦しみを終わらせてあげたい。
おとうはんは病院に行こうと言ってくれたけど、もう病院であれこれされるよりはこのままうちで最後の時を迎えたい、と言いました。病院に行く途中で急変して車の中で最後を迎えるのもイヤやし、多分もうちょっとで終わるから、このままにゃんずもみんないる家でお別れをしたい。文太の望み通り、最期の最期までお腹いっぱい思う存分食べさせてやりたい、と。
苦しそうにゼイゼイ荒い息をしておそらく痛みで悲鳴をあげる文太に、私がここ数年ずっと思い描いていた「これからの話」をしました。
「文ちゃん、大丈夫やで。何も心配することないんやで。おかあはんが『大丈夫』っていうときはいつも大丈夫やったやろ?だからちゃんと聞いて。耳は聞こえんでもおかあはんの声はちゃんと届いてるやろ?
あんな、今ものすごい辛いと思うけど、もうすぐあゆちゃんが迎えに来てくれるから。あゆちゃんに会ったらあゆちゃんにちゃんとついていくんやで。あゆちゃんが色々全部教えてくれるから。あゆちゃんについていってちょっと神様に挨拶しといで。ほんで、『最後なんでこんな苦しめなあきませんでしたん?』て一言文句言うて、あゆちゃんと一緒におうちに帰っといで。
そしたらな、文ちゃん今の辛いのとか苦しいのとか全部なくなるから。おまけに足痛いのも耳が聞こえへんのも全部治って、2歳ぐらいの絶好調やった体に戻れるから。また3時間ぐらい余裕で歩けてガンガン走り回れる体に戻れるんやで。またおかあはんと一緒に『よーいドン!』しよう!昔よくやってたみたいに、かくれんぼもしよう!いっぱい色んなとこ散歩行こ!
おかあはんに会えなくなるんとちゃうねん。これからは、ずっとずーーーっと一緒にいられるようになるんやで。これからは、おかあはんの買い物も飲み会も温泉もお寺も神社も旅行も映画も、今まで文ちゃんが行けへんかったとこもぜーーんぶ行けるようになるんやで。ま、今はコロナで行けへんからもうちょっとしてからやけどな。
海外旅行も一緒に行けるんやで!楽しみやなぁ。おかあはん、文ちゃんと一緒に飛行機乗って海外行けるのずっと楽しみにしててん。
それとな、文ちゃん、これからはチョコレートとか玉ねぎとか今まで食べられへんかったもんもなんでも食べられるようになるんやでぇ!すごいやろ?おとうはんの大好きなラーメンも餃子も食べられるでー!文ちゃんがびっくりするぐらい美味しいもんいっぱい食べられるようになるねんで。
文太はいなくなるんとちゃうねん。『スーパー文太』に生まれ変わるねん。おかあはんと24時間いつでも一緒にいられて、なんでもできて、どこへでも行けて、なんでも食べられるスーパー文太やで!どう?悪くないやろ?
だから、大丈夫。もう何も心配することないから。」
文太を抱きしめながら、そんな話をえんえんとしました。でも、文太の辛くて苦しそうなうめき声というか悲鳴が治まることはありませんでした。
「文ちゃん!もういいから!もうそんなにがんばらなくていいから。文ちゃんはこれまでいっぱい頑張った。ずぅーっと頑張ってくれた。ありがとう。今までいっぱいありがとうな。でも、もういいよ。もう十分やで。16歳になれんでもいいから。心配しなくてもおかあはん、大丈夫やから!!文ちゃんも大丈夫やから!!これからもずーっと一緒やから。おかあはん、ずっとずーー-っと文ちゃんのそばにいるから!もう楽になっていいねんで。もうそんな辛い体捨てて早く楽になり・・・!」
気づけば、最後まで言うまいと思っていた言葉を泣きながら叫んでいました。
それでも、まだ『最期のとき』はやってきませんでした。
苦痛が治まることもなく、逝くこともできず、これまで聞いたことのないような苦しそうな悲鳴が止むことがないまま最後の発作から1時間半が経ちました。
映画「グリーンマイル」の中に出てくる根性悪の看守が死刑囚を処刑するとき、興味本位でスポンジに水を濡らさなかったために体に電流が流れず長時間悶え苦しんだ末に焼き殺される、あの凄惨なシーンが浮かんできました。
もうこれ以上は無理や・・・。
これ以上こんな辛い思いを続けさせたくない。
ほんとにもう早く終わらせてあげたい。
「この苦痛から一刻も早く解放してあげること」
それが、飼い主として最後にしてやれることだと思いました。
おとうはんともその想いは通じ合い、病院に行って先生に安楽死をお願いすることにしました。
病院に着いて先生に話をしましたが、先生には意外なことを言われました。
「おふたりの気持ちは痛いほどわかります。でも、獣医師としての立場から言わせてもらえば、まだチャンスはあるのにここで諦めたらもったいない。安楽死はいつでもできます。でも、その前に一度麻酔をかけてリセットして、てんかんと脳腫瘍(とみなして)の治療をガツンとやってしまえば、なんとかコントロールできる可能性はまだあります。それでもダメなら楽にする処置をします。それはいつでもできます。だから、その前にもう一度だけチャレンジしてみませんか。」と。
不思議なことに、病院に着くまでギャーギャー断末魔の悲鳴をあげていた文太が、呼吸は荒いもののなんだか落ち着いています。
そうか。まだチャンスはあるのか。
これまで何回も危機を脱したミラクルボーイの文太のことやから、
今回ももしかしてまた奇跡を起こしてくれるかも・・・。
麻酔から覚めたあと、ケロっとしている文太に「おかあはん危うく文ちゃんのこと殺しかけたわー。」と笑っている自分が脳裏に思い浮かびました。
その最後のチャンスに賭けてみることにし、即麻酔の処置に入りました。
処置室までおとうはんと一緒に入らせていただき、手術台に寝かせた文太に鎮痛剤を入れて眠る前に、「文ちゃん、大丈夫。おかあはんずっとそばにいるからな。ずっと一緒やで。」と、これまでもう何万回も言ってきた言葉をかけました。伝家の宝刀、「大丈夫」の魔法をかけました。ちゃんと笑顔で言えました。(誰かわからんぐらい涙で顔は腫れていたけど。)
そして、それが文太にかけた最期の言葉となりました。
私の「大丈夫」を聞いた後、麻酔薬を入れてしばらくしてから心拍が止まり、
そのまま戻ってきませんでした。
2020年4月29日午前10時30分。
享年15歳11ヶ月26日でした。
先生の言葉で最後ちょっとだけ期待したとはいえ、心臓が止まった時は悲しさや辛さは全くなく、「ああ、よかった。文ちゃん、やっとゆっくり眠れたんやなー。」と、穏やかな気持ちで、ただただ安心しました。
「最後は安楽死」ではなく「最後まで全力を尽くしたけどダメだった」という事実ができたことも、後々ありがたく思いました。最後まで文太のために闘おうと全力を尽くしてくださった先生には感謝しかありません。
これまで文太の応援をしてくださった皆様、ここまで全部読んでくださった皆様、ありがとうございました。これまでのお気楽極楽な文太からは想像もできない、皆様方には大変ショックを受けさせてしまう内容だったかもしれないことをお詫び申し上げます。
ただ、どうしても書くことで自分の気持ちを昇華させたかったので、詳細に渡って全て書かせていただきました。
文太は最後までがんばりました。
頑張りすぎました。
最後はあんなに苦しい思いをさせてしまったけど、
前日までほぼいつもと変わらない毎日を送らせてくれた。
16歳にはなれなかったけど、
私の願い通り、最後まで自分の足で立って歩けた。
最後の最後までお腹いっぱい食べられた。
「これからの話」をちゃんと聞いてくれた。
最後に笑顔で「大丈夫」をちゃんと言わせてくれた。
そんな文太を誇りに思います。

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